結局人生50歩100歩 じゃないかもしれない。

嫌いだったり許せない事が共有出来るって大事だよね。「モラルの価値観について」

2014-03-03 Mon 23:30
今でも忘れられない出来事がある。
私が小学生のときの話だ、
友達ファミリーと別荘に一緒に出かけた。
私はその友人の父親が運転する車に乗り込み
我が両親はその車の後をウチの車で走っていた。

高速道路に入る手前で、友人の父親が
ごく当たり前のように車内にあったゴミの空き缶を
窓から草むらにぽーんと放り投げたのだ。
あまりのこのとに絶句していると
今度は友人の母親が自分の飲み終わった空き缶を
窓の外に投げ捨てた。
私は後部座席で固まっていたのだが

「あなた達も飲み終わってるなら窓から捨てなさい」

いけない事とはわかっていたけど
保護者の許可を貰ってやる
不道徳な行為、それはそれは
なんともいえない後ろめたさの残る
恐ろしい行為だった。

勿論この後私は、
後ろを走っていた自分の親に家に帰って
こっぴどく怒られる羽目になったのだが・・・

母は帰宅後、怒髪天を突く勢いで私を叱り飛ばした。

「○ちゃんママに捨てろと言われたから、
私は嫌だったけど仕方なく捨てた」

と言うとそれはそれは怒られた。

「なんとなく捨てちゃった。」

と言ってた方がまだ怒られなかっただろう。

母が怒ったのは、
「他人に指示されたら、あなたは
それが悪い事でも拒否せず従うのか?」
その一点だったように、今でも記憶している。

母は怒るよりもそんな私が情けないと言っていた。

もともとわたしの家は道徳教育に関して特に厳しいとか
思った事は無かったし
自分で窮屈だと感じた事は全く無かった。

「道にゴミを捨てない」とかは
わざわざ言い含められる類いの厳しいルールではなく、
むしろ人として最低限守るべきルールなので
あたりまえのことだと思ってたし、

やたら口うるさくモラルに関して躾けられたという
思い出は一切無いんだけど、

親をこんなに落胆させてしまう程のことだったのかと思って
私もとても悲しくなって恥じ入った。

そして、もし次回そういうモラルに反したことを
誰かにやれと言われたら、必ず自分は嫌だとちゃんと言おう
と思ったのであった。

勿論それ以来その友人ともその家族とも
疎遠になった。

この出来事はいまでもそのシーンが鮮明に
脳内スクリーンにカラーの動画で再生できる程
印象深い出来事だった。



それからずいぶん年月がたった。
そう、かなり大人になってから
また似たような出来事があった。
時はネット黎明期、

ネットで知り合った人々と初めて会ったときの話である。
オフ会なるものが各地で催されはじめた頃の話。
共通の趣味で仲良くなった人と会う為に
私は飛行機でとある場所に向かった。

待ち合わせた空港で車を車椅子マークの所に
停めていた人がいたのだ。

彼女は次の目的地の駐車場でも
「あいてるし、入り口にも近いのでここが便利でいいよね」と
一切の迷い無くごく普通に車椅子マークの場所に
車を止めたのだった。

申し訳ないけど、
飛行機のって会いにきたけど
好きな事が一緒の
巡り会えちゃった系の新しいお友達だと
思ってたけど、
ちょっとこれってどうなのよ

私はこういう時、嫌われ上等と思ってるんで
はっきり言いましたわよ。

「ここは我々が停めていい場所ではない。フェアにやろうよ。
いますぐ普通の駐車場スペースに停め直すべきだ」

と。

もちろん彼女達はいきなり私に何を言われたのか
理解不能という顔をしたし、
「真面目ね」みたいな嫌みをやんわりと言われたし
相当微妙な雰囲気になったよ。

でも別にほんとこんなチンケなズルをするような
交友関係なんか自分から望むこともないし
そもそもずるい人は私には必要ない
常々合わない人は私を嫌ってくれて結構
と思ってるんで
その後連絡はお約束通り途絶えたけど、

あんなにしれーっとモラルの無いことが
後ろめたさのハードルすら無く、軽々と出来る人が
知り合いに居るだけでも自分の価値が下がるんで
居なくなってくれて良かったって思ってる。

この二つの出来事を通して私が実感した事は
自分のモラルの価値観に反することを許容すると
自己の尊厳が毀損されてしまうってこと。
逆にきちんと拒否出来る事の大事さだった。

そして、
人と交流する際に大切な条件は
「好きな事が同じ」よりも
「許せない事が何なのか」が共有できないと
難しいということが判ったのも
この時なのである。


でもほんと冗談抜きにモラルの価値観って
非常に難しいけど大事なことだと思う。

交流する友人達や、配偶者、家族のモラル価値観が
合致してる事って、結構重要なポイントなのだ。
好きな事が同じだと仲良くなれそうな気がするけど
好きな事の共有なんて実は特に重要じゃない。

モラルの価値観が共有出来ないと
長く一緒に居られない

特に夫婦なんかはそれが顕著だと思う。
付き合ってる時にどんな態度を取る人のなのかは
充分わかるから、
ポイ捨てしない人かどうかとか
モラルの価値観が共有出来るかどうか
きちんと見極めた方がいい。

何故ならモラルの無い行為を黙って見過ごす事で、
自分が知らぬ間に汚れて行き、段々と侵食される。
ジワジワと侵されていく道徳心って
非常にストレスになるはずなのだ。
人は変わらないし変えられないから尚更。


そのような些細な空き缶捨てや
身障者スペースの占有程度の
モラルが守れないような価値観の輩は、
「一事が万事」なのだよ。

モラルを欠く事に躊躇が無い
良心が傷まないということは

犯罪行為だって許容するようなルーズな状態まで、
そんなに開きは無いと思う。

私のように嫌われ上等と思ってないなら
波風立てるがごとく
わざわざ注意する必要はないけど、

最低限「自分はそれは嫌だ」ということは
表明しておく必要はある。
黙っている事は、それを受け入れたということに
他ならないからだ。

例えそれでうざがられて、
その後疎遠になったらそこまでで結構なのだ。

わざわざそんな心根の汚い人達と
交流したいと思わない。
自分も汚れそうで嫌だ。


さて、じゃあどうするべきなのか?

「私はこれを受け入れられない」
とビシッと白黒ハッキリすることで、
自分が侵害されない生き方になると
私は思ってる。

ただし、その線引きがゆるいと
たちまち侵食され、奪われ、踏みにじられ、
最終的には粗末に扱われるようになる。

自分の気持ちに背いて
へらへらしてるということは
すなわち自分で自分を粗末にしてる事だから
結局他人からも粗末に扱われる事なのだ。

自分のモラルの価値観に合わなかったら

「私はこれが嫌」
「私はそういうの嫌いだ」
「私はそこは譲れない」

って、どんどん表明した方がいい。
そのほうが自分を守れる。

「私が嫌なこと」

をもっとちゃんと言うべきなのだ。

自分の思想を明確に示しておく事は
悪意を持った何かから自分を守る事でもある。

そんなことで壊れる関係ならもともと価値もなかったし、
必要なかったんだということ。
そんな汚れた人と付き合う価値は無いからね。

世の中にその他のまともでモラルの価値観が合うひとは
他にも沢山いるんだから。
「わたし」を侵食するような奴は要らないのだ。


人の価値観で生きる必要はない。
捨てられることばかり怖れてないで、
必要の無いものは自分から捨てればいい。

自分のモラルの価値観を守ることの方が大事だし、
モラルに対してルーズな人たちは
自分のモラルの価値観を譲歩してまで
交流する価値がある人々だとは到底思えない。
要らないものはとっとと捨てたほうがいいのだ。

嫌われる事を恐れて自分の中の大事なものを
搾取されない様にしないといけない。

自分を守れるのは自分だけ。

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